65番 月山富田城
歴代の出雲国守護職の居城
山陰山陽8カ国の守護となる尼子氏の時代が最盛期
標高184mの月山の地形を利用した複郭式の難攻不落の山城
難攻不落も毛利氏の謀から始まる内部からの崩壊には瓦解
落城を余儀なくされた尼子氏の悲哀が感じられる史跡
また、再興への悲願が挫かれた旧臣の無念も思いやられる
往時を偲ぶ建物はなく、みどころは城跡の山とその歴史
由緒
登城記
- 登城日
- 2013年11月30日
- 日が短くなり夕闇が迫る中を急ぎながら登城
- 訪れる人にもほとんど会わない
- 交通
- 石見銀山からレンタカーで
- 登城後は米子空港から帰路へ
- 駐車場
- 道の駅「広瀬富田城」
- 以下雑記
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クルマを停めた道の駅「広瀬富田城」に隣接する歴史資料館
この先、道沿いに進み登城路があります
その前にスタンプ押印はここで
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道沿いに進むと富田城の模型が
帰り道に再確認するとその規模の大きさ、難攻不落さがよくわかります
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太鼓壇(千畳平)
尼子経久が鼓楼を設けて太鼓を打ち鳴らし、士気を高めたとされる場所
千畳平とは広場の意味で、尼子時代の「勢揃い場」
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太鼓壇に1934年創建の尼子神社
その先には山中鹿之助の像
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奥書院平に建てられた戦没者慰霊碑
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花の壇
有力な武将の居住地域か
殿舎が復元されている
その先に本丸のある月山が
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山中御殿
城主の居住地域
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山中御殿
本丸登城後別角度から
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山中御殿から本丸へ
月山軍用道
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親子観音
堀尾河内守の長男掃部(勘解由)の霊を祀った宝筺印塔
堀尾河内守は富田城最後の城主堀尾忠晴の義理の叔父
幼少の忠晴を排し、掃部を三代藩主に立てようとするお家騒動が勃発
結局、首謀者とされる河内守と掃部は流罪・切腹となる
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七曲り
途中の山吹井戸
山の中から吹き出すことから
年中枯れる事はないそうです
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ここを上がると三ノ丸から二ノ丸へ
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三ノ丸には鳥居が
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三ノ丸の先には二ノ丸
復元建物も
備前焼の甕が発掘されたので
戦時の水、食糧の貯蔵所を想定
最後の砦の本丸を厳重に守る
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二ノ丸から本丸へ
二ノ丸と本丸の間には深さ約10mの空堀(堀切)が石垣で造られてます
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本丸
振り返ると空堀の先に二ノ丸が
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本丸からの眺め
毛利軍の軍勢、包囲網もよく見えたことでしょう
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本丸を少し行くと山中幸盛(鹿之助)の碑
2つに割れてるように見えますが、もともとこういうデザインだったんでしょうね
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本丸の奥の東端には神社が
勝日高守神社という大変由緒ある神社です
天平時代の733年には創建されていたようで、最初の築城より400年は古そうです
だいぶ薄暗くなってきていたのでちょっと薄気味悪く感じました
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帰路に山中御殿にあった整備案内板
全体像がよくわかります
城跡概略
- 所在地
- 島根県安来市広瀬町富田
- 100名城スタンプ
- 安来市立歴史資料館