日本の名城とその歴史

日本100名城巡り - 月山富田城

65番 月山富田城

歴代の出雲国守護職の居城

山陰山陽8カ国の守護となる尼子氏の時代が最盛期

標高184mの月山の地形を利用した複郭式の難攻不落の山城

難攻不落も毛利氏の謀から始まる内部からの崩壊には瓦解

落城を余儀なくされた尼子氏の悲哀が感じられる史跡

また、再興への悲願が挫かれた旧臣の無念も思いやられる

往時を偲ぶ建物はなく、みどころは城跡の山とその歴史

由緒

築城
平安時代末期 平景清により築城
歴代城主
塩冶氏、山名氏、京極氏、尼子氏、毛利氏、堀尾氏
変遷
1221年 佐々木義清 承久の乱の功により、 出雲・隠岐2国の守護となり、月山富田城に入る
1392年 京極高詮、甥の尼子持久を守護代に任命
1552年 足利義輝、尼子晴久を山陰山陽八ヶ国守護に任命
1566年 尼子義久、毛利氏の包囲に兵糧尽き、落城
1569年 尼子遺臣 山中鹿之助 尼子再興軍を催して攻めるも失敗
廃城
1611年 堀尾忠晴 松江城に移り廃城

登城記

登城日
2013年11月30日
日が短くなり夕闇が迫る中を急ぎながら登城
訪れる人にもほとんど会わない
交通
石見銀山からレンタカーで
登城後は米子空港から帰路へ
駐車場
道の駅「広瀬富田城」
以下雑記

クルマを停めた道の駅「広瀬富田城」に隣接する歴史資料館

この先、道沿いに進み登城路があります

その前にスタンプ押印はここで

道沿いに進むと富田城の模型が

帰り道に再確認するとその規模の大きさ、難攻不落さがよくわかります

太鼓壇(千畳平)

尼子経久が鼓楼を設けて太鼓を打ち鳴らし、士気を高めたとされる場所

千畳平とは広場の意味で、尼子時代の「勢揃い場」

太鼓壇に1934年創建の尼子神社

その先には山中鹿之助の像

奥書院平に建てられた戦没者慰霊碑

花の壇

有力な武将の居住地域か

殿舎が復元されている

その先に本丸のある月山が

山中御殿

城主の居住地域

山中御殿

本丸登城後別角度から

山中御殿から本丸へ

月山軍用道

親子観音

堀尾河内守の長男掃部(勘解由)の霊を祀った宝筺印塔

堀尾河内守は富田城最後の城主堀尾忠晴の義理の叔父

幼少の忠晴を排し、掃部を三代藩主に立てようとするお家騒動が勃発

結局、首謀者とされる河内守と掃部は流罪・切腹となる

七曲り

途中の山吹井戸

山の中から吹き出すことから

年中枯れる事はないそうです

ここを上がると三ノ丸から二ノ丸へ

三ノ丸には鳥居が

三ノ丸の先には二ノ丸

復元建物も

備前焼の甕が発掘されたので

戦時の水、食糧の貯蔵所を想定

最後の砦の本丸を厳重に守る

二ノ丸から本丸へ

二ノ丸と本丸の間には深さ約10mの空堀(堀切)が石垣で造られてます

本丸

振り返ると空堀の先に二ノ丸が

本丸からの眺め

毛利軍の軍勢、包囲網もよく見えたことでしょう

本丸を少し行くと山中幸盛(鹿之助)の碑

2つに割れてるように見えますが、もともとこういうデザインだったんでしょうね

本丸の奥の東端には神社が

勝日高守神社という大変由緒ある神社です

天平時代の733年には創建されていたようで、最初の築城より400年は古そうです

だいぶ薄暗くなってきていたのでちょっと薄気味悪く感じました

帰路に山中御殿にあった整備案内板

全体像がよくわかります

城跡概略

所在地
島根県安来市広瀬町富田
100名城スタンプ
安来市立歴史資料館
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