日本の名城とその歴史

日本100名城巡り - 山中城

40番 山中城

北条氏の小田原の西を守る最重要拠点

箱根に登る東海道を挟んで大規模築城工事された土塁山城

ただ、豊臣、徳川連合軍に攻められ半日で落城の憂き目

北条氏の戦略、方針が揺れ動く中での滅亡への最初の犠牲者

よく整備復元されていて北条築城技術の粋を窺うことができる

素晴らしい富士山が望める隠れた絶景ポイント

由緒

築城
1560年頃 北条氏康により築城
歴代主要城主
松田氏
変遷
1587年 北条氏政 改修工事開始
1590年 豊臣軍の攻撃により半日で落城
廃城
1590年 北条氏滅亡に伴い自然廃城となる

登城記

登城日
2014年12月 8日
交通
三島駅からバス30分程度 山中城跡下車
以下雑記

まずは、山中城跡売店横から岱崎出丸へ

岱崎出丸は秀吉の小田原征伐に備えて急造した曲輪です

出丸御馬場跡

岱崎出丸最大の曲輪があった場所です

この城の戦いはまずは岱崎出丸から始まりました

守将間宮康俊も100余名では守りきれず壮絶死を遂げました

岱崎出丸

今はきれいに整備されてます

短期で急ぎ築城工事を進めたのがその途中で戦いになってしまったようです

すり鉢曲輪

岱崎出丸の最先端です

すり鉢のように曲輪の中央が窪んでます

武者溜り

すり鉢曲輪の東側で、すり鉢曲輪の虎口と繋がってます

攻め込まれたときにここから救援に向かったのでしょうか

岱崎出丸 一の堀

先端のすり鉢曲輪から西側の中腹を箱根旧街道の空堀まで続いています

畝もきれいに復元されてます

東海道から出丸をしっかり隔て守るものだったのでしょう

三ノ丸堀

三ノ丸の西側を守るものです

自然の谷をうまく利用したものだそうです

西の丸畝堀

山中城と言えば畝堀ですね

遺構を保護するために芝生や樹木を植栽してあります

当時はすべりやすいローム層が露出していたものだったそうです

西櫓堀

堀底から西櫓までは9mの高さだそうです

当時は堀に落ちれば脱出は不可能だったと推定されてます

西の丸堀

西の丸と西櫓との間は幅が広く障子堀になっています

最大のみどころでしょうか

溜池跡

川の谷がのびてきていたのを盛土で仕切って溜池としたものだそうです

山城の生命の水への異常な執念がうかがえます

西の丸

広大な曲輪ですがここには大きな建物はなかったようです

東に傾斜していて溜池に雨水が流れるようになっています

他の曲輪と同様に周囲は土塁で囲まれてます

西の丸見張台から西櫓方面

障子堀で隔てられていることがよくわかります

西の丸見張台から二ノ丸方面

この後向かいます

北の丸と北の丸堀

天守櫓につぐ高地に位置し敷地も広く防御の要の曲輪

堀は高く急峻

石を用いずこれだけの急な堀を築く技術はみごと

架橋

本丸と北の丸を結ぶ

木製の橋は簡単に破壊でき曲輪の防御には有利

本丸跡

山中城の中心

藤棚のところが本丸広間

天守櫓跡

天守台には井楼、高櫓が建てられていた模様

本丸跡から二の丸跡へ

今は通行の安全上橋が架けられています

兵糧庫跡

本丸のすぐ下に位置します

弾薬庫だったとも

駒形諏訪神社の大カシ

本丸への入口にあり樹齢500~600年と推定

山中城合戦はしっかり見ていたことでしょう

県指定の天然記念物

駒形諏訪神社

1号線沿いに鳥居があります

三ノ丸跡に建つ宗閑寺

駒形諏訪神社から1号線を少し戻る方向に歩くとあります

攻城戦での戦死した両軍の将の墓石が並んで佇んでいます

北条軍:城主 松田康長、間宮康俊兄弟、箕輪城主 多米長定

豊臣軍:一柳直末

宗閑寺横の山中公民館横を入ると箱井戸と田尻の池です

一面の湿地帯を盛土で区切って2つの池にしたそうです

湧水が箱井戸から田尻の池に流れ出る構造でした

新しい水が供給される箱井戸は飲料用

水が溜められる田尻の池は洗い場・馬用でした

山中城跡の隠れた見どころは富士山の眺望

岱崎出丸と西櫓堀外側の帯曲輪が絶好のビューポイント

天気に恵まれて雄大な姿を見せてくれました

城跡概略

所在地
静岡県三島市山中新田
100名城スタンプ
山中城跡売店(屋外常設:売店が休みでも押印可)
ホームページ
山中城跡公園
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